彦根城へ行こう!お城巡りで知る、この地の歴史と物語 

お城を中心にしてできたまち

彦根のまちは、お城を中心にしてできている。そう言っても過言ではないほど、お城を起点にしたまちの形が江戸時代からそのまま残っているのだ。
築城当時は軍事的な目的をもってつくられたお城も、今ではすっかり市民の憩いの場。人びとが朝夕散歩に訪れ、学生も通学のために城内を往来する。毎日3時間ごとにごーんと鳴る城の鐘が時を報せ、人びとの暮らしの一部にお城がある。

そんな彦根城のことなら「この人が詳しい」と案内いただけることになったのが編集者の杉原正樹さん。城下町で育ち、彦根や彦根城の魅力を伝える活動を行っているお方で、彦根の伝統遊具「カロム」や地域の妖怪にも詳しい。
「とにかく、お城を歩きましょう!」と言っていただき、さっそく出かけることに。

彦根城は、いつ、誰が建てたのか?

お城に入る前にまず、彦根城の成り立ちを簡単に振り返っておきたい。
彦根城が建てられたのは江戸時代に入ってすぐのこと。ほんの2キロ東にある佐和山城が、もともとはこの地を治める城で、豊臣秀吉の時代は石田三成が城主だった。
三成が関ヶ原の戦いで敗北すると、代わって佐和山城に入ることになったのが徳川方の重臣・井伊直政。直政は築城に着手する前に亡くなるが、嫡男直継(直勝)がその意志を継ぎ、1604年彦根山に新しい城の建設を開始する。その後、20年以上の年月をかけて完成したのが彦根城だ。

この城、じつは井伊家だけでつくられたものではなく、徳川家康の命のもと「天下普請」として築城された。関ヶ原の戦いの後、1600年初期はまだ世の中が不安定で、彦根は東と西が対峙する最前線、軍事的な要衝として一日も早い城の完成が望まれたのだ。

「戦略的にしっかり構成された城です。それだけ徳川にとって重要な城だったということですよね」と杉原さん。

結果、彦根城は一度も攻められることなく今に至るのだけれど、細部にまで敵から攻められた時の戦略が施されていて、その設計を知るのは面白い。

太鼓櫓の内側。

さっそくお城へ!攻める気持で歩いてみよう

お城を歩くときは「自分がこのお城を攻めるとしたらと考えながら歩くと面白い」と教わり、さっそくその気になって出発(!)
表門口を入るとすぐに、杉原さんが左手を指差して言った。

「あそこに見えるのが彦根城で有名な、登り石垣です。数年前まで木々で覆われ見えなかったんですが、最近石垣をよく見えるように整備したんですね。お城マニアにはこれはすごく嬉しいことなんです」

登り石垣とは、敵が城を目指して登り始めた際に自由に移動ができないよう、石垣で塞いだもの。全国でもめずらしく、彦根以外では2カ所でしか見ることができない。

登り石垣。彦根城内には5箇所に同様の登り石垣がある。

幅が広く、歩きづらい。敢えて人が歩きにくいよう歩幅とずれるようにつくってあるらしい。

階段を上りきると、天秤櫓(やぐら)の下に出る。両脇に高い石垣がせまり、頭上には橋が掛かっている。

「ここは大堀切(おおほりきり)と呼ばれる、両脇を石垣で囲った空堀(からぼり)です。いざとなれば上の橋を落とせば、敵が本丸に入るのを防ぐことができる。防御策として考えられた仕掛けです」

多くの大名が関わって普請した、リサイクルの城

完成を急いでいたこともあり、彦根城は各地の大名が集まり近郷の建物を移築するなどしてつくられた、杉原さんいわく「リサイクルの城」なのだそう。

「徳川の命で天下普請として建設された城で、『井伊年譜』によると7ヶ国12大名が関わってつくっています。天秤櫓を正面から見ると、左右で石の積み方が違っていますよね。右側(東側)は自然石が多く石材の間に間詰め石と呼ばれる石が詰められており、築城当時のに積まれた石垣です。左側(西側)は石材と石材がぴったりと密着して積まれています。嘉永7年(1854年)に修復した時の石積みです。石工の違いや石積みの時期の違いです」

右側の石垣は、「牛蒡積み / 打込接の乱積み(うちこみはぎのらんづみ)」、
左側は「「落し積み / 切込接の乱積(みきりこみはぎのらんづみ)」と言われる。
(※彦根城の石垣にいろいろな石積みがある理由は二つ考えられる。
天下普請で各地の大名が自国の石工を連れてきてその技術で石垣をつくったこと。
もう一つは石垣をつくった時期の違い。250年の間に徳川の許可を受けて行った石垣の修理は28回。その間に技術の変化がある。)

天秤櫓の手前右に自生するオオトックリイチゴは、彦根城に生息する固有種。
日本の植物学者、牧野富太郎により明治27年に発見された珍しいもの。

華やかな意匠の施された天守も、大津城を移築したと言われている。

1952年に国宝指定された天守。前の広場には、1日に2回、ひこにゃんも登場する。

そのほか佐和山城に使われていた石材(鐘の丸西面石垣)も、彦根城の建築に再利用された。

ところで彦根城の石垣石材のなかには中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう。墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種)などを転用して用いられたものがある。鐘の丸の石垣に二ヶ所、西の丸の石垣に一ヶ所、大手の石垣に一ヶ所、内堀城外側の石垣に一ヶ所確認されている。彦根城の転用材は築城以前にあったとされる彦根寺の宝篋印塔が転用されたものといわれている。

転用材。西の丸の石垣の前で「さぁどこにあるでしょう?」と杉原さん。
よーく目をこらすと、一つだけ角張った石が!「お墓に使われていた石ですね」

かつては、内湖に隣接するお城だった

この彦根城探索で一番驚いたのは、天守の裏手から佐和山方面を見下ろしながら、杉原さんがさらりとこう言ったこと。
「今見えている、この辺り一帯はすべて湖だったんです」

お城の裏手を見下ろせる。昭和初期に至るまで、裏手に広がるこの辺りのエリア(今はしっかり街)は内湖だったという。

「この内湖は琵琶湖までつながっていて船で行くことができました。彦根城には三重の堀があり、蚊が媒介するマラリアが風土病だった時代があります。築城時の外堀は昭和20年代後半に埋め立てられたんです」

お城を建てた当時はまるで湖に浮かぶように建っていたということらしい。さらには、堀や川など水に守られた城だったことが想像できる。

人々の暮らしの一部となっている彦根城

西の丸三重櫓へ入り最上階へ上って外を見下ろすと、周囲の街並がよく見える。昔の外堀は埋め立てられて道になっているが、内堀、外堀(昔の中堀)は今も城下町をぐるりと囲み、その外側を芹川が琵琶湖に注いでいる。芹川より東側が城下町と言われる。

「だから彦根では、この天守のある内堀の中だけをお城と言うのは違う気がするんですよ。私たちにとっては城下町も含めてすべてがお城なんです」

すぐ裏手に学校が見えた。

「あれが僕の母校、彦根西中学校。学生証を見せるとお城は無料で入ることができました。大学も高校も中学校も小学校もお城の中にあります」

お城には観光客だけでなく、学生らしきグループや地元の人も多く見られた。彦根の人たちにとってお城があることはごく当り前で自然なことなのだろう。

井戸曲輪下の城内一高い石垣。

内堀には屋形船が周遊しており、ゆったりとお堀めぐりが楽しめる。

黒門口へ下り、橋を渡ると、かつて隠居したお殿様の住まいだった「玄宮楽々園」へ出る。その前の長い石垣の前を歩いて、途中井伊直弼の大老像を横手に見ながら表門まで戻れば、ぐるりと一周したことに。

長い石垣の中に漢数字の「六」が刻まれた石があるのだが、
なかなか見つけるのが難しい。これが何の印なのかは定かではない。

祈りの山だった、彦根山

最後に杉原さんが連れていってくれたのは、お城の西側にある大手門。
この彦根城には二つの表門がある。表門と、大手門。もともと京都に向かう街道に向いていた大手門を正門とする予定だったが、後から中山道が主要街道として整備されたため途中で変更されたからなのだとか。

大手門にもチケット売り場がありお城へ入ることができるが、その手前の誰もが自由に出入りできる場所に小さな地蔵堂がある。ここには、築城前に彦根山のあちこちに点在していたお地蔵様を集めて一カ所に祀ってあるのだとか。

「もともと彦根山は信仰の山で、巡礼で訪れる山だったんです。だからお地蔵様が多く、今も信者の方が手を合わせに来られます。どの前掛けもきれいでしょう。手前の三つの丸い石は重軽石(おもかるいし)と呼ばれる石で、最初に持ち上げて願い事をした後、もう一度持ち上げた時に最初より軽ければ願いが叶う日が近いと言われています」

この日も一人の年輩の女性が、静かにお地蔵様に向かって手を合わせていた。
彦根城は城下町・観光街のシンボルである一方で、こうした祈りの聖地である面も失われていない。長年人々の暮らしに根付いてきた奥深さが感じられた。

夜の彦根城を見学できる「彦根城夜楽」や、玄宮園での観月の会、秋の虫の声を楽しむ会など一年を通して城を舞台に風情あるイベントも開かれている。

水や緑の豊富な憩いの場であり、文化の発信地でもある人の集う場所。
国宝としての価値だけでなく、彦根城は今も生きる宝として人びとの支えになっている。


彦根城

住所:滋賀県彦根市金亀町1−1
有料区域公開時間:8:30〜17:00
問合せ先:彦根城管理事務所 TEL:0749-22-2742

この記事に関する問合せ先:国宝・彦根城築城410年祭推進委員会事務局 TEL:0749-30-6143

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